メルマガ登録・解除 ID: 0000122694
独立起業と投資であなたも自由人〜不動産売買の秘術
   
バックナンバー powered by まぐまぐトップページへ
リストマーク あもじ物語 「あ」屋代表そうさ 激動の半生を激白!?
HOME 

【幼少〜大学時代】 【教員時代】 【流浪時代】 【会社創設時代】 【かけだし時代】 【「あ」屋黄金?時代】


公立小学校教師として社会人デビューを果たしたが、教員時代は子ども達とエネルギーのぶつかり合いの毎日であった。


小学校教師に学力はいらない。必要なのは「体力」のみ。強じんな体力さえあれば中卒でもやれます。ホント・・。

朝から帰りまで息つく間もないまるでジェットコースターのような一日。数少ない男性教師は、部活の指導も行う。20代でカラダが動くのも手伝って、ぶっ倒れるまで働き続けるという、手抜きが出来ない悲しき新卒からの数年間。トイレで用をたしながら、ウトウト寝てしまったことも。教室ではギター片手に歌い、校庭を子どもと走り回り、体力・気力のもつ限りエネルギーを放出していた毎日。子ども達と一気にかけ抜けた時期だった。


なんでもそうだが、3〜5年続けると慣れて余裕がでてくる。学級担任の場合、部署がえや急な出世ががあるわけでもなく、基本的には毎年同じ事のくり返し。学級担任になったらやってみたかったことのほとんどは、最初の3年間でやりつくしていたので、少しずつマンネリ感を覚えていたことは否めない。


その頃は、サッカー部の指導にやりがいをシフトしていた時期かもしれない。放課後は子ども達と一緒にボールを追っかけ、年に一度のサッカー大会には、小学生相手に朝練を行うなど、異常とも思える熱意で指導したものだ。「いつか市でNo.1をとる。」当時サッカー部顧問であれば、誰もが一度は考えた夢だ。


その夢は意外と早く達成された。教員6年目、異動した2校目の学校で、念願の市No.1を達成。市内40校以上の頂点に立つことは決して容易ではないのだが、運にも恵まれ、栄冠を手にすることができた。願ったことは叶うのか。このころから自分が強く意識したことが、達成できるのではという妙な「チカラ」を意識し始めるようになる。

--------------------------------------

部活動でも目標達成、教員生活全般に「飽き」を覚えていた頃、新卒当時から仲の良かった先輩が、海外の学校(日本人学校)へ行った事を思い出し、自分もやってみるかと思いつく。あわててその年の試験を受けてみるも惨敗。やはり周到な用意が必要である。世の中そんなに甘くない。

なにしろこの試験は、市・県・国の3本立ての試験が待ち受ける非常に門せまきもの。仮に合格しても即派遣はめずらしく、一年間の研修をへた上でという、文科省ならではのコテコテの道のりなのだ。


合格しても派遣先はどこになるか分からない。ニューヨークか、はたまたケニアか・・、世界100以上ある日本人学校だが、行き先は希望できず、文科省に言われるがまま。仮に拒否すれば二度と試験を受けられないどころか、自分の所属する市内からは、数年間は見せしめとして合格者を出さないといった処置も。さずがねちっこいお役所のやることだけはある。

実際私は迷っていた。文化や生活様式の違う海外。はずかしい話、それまで海外旅行すらしたことがなかったのに、どこに飛ばされるか分からないなんて。当時自分の子どもも小さく、海外での苦労は目に見えていた。

そんな迷いを見透かされたか、次の年に再び受けるも、県の段階で不合格。受かればその時の成り行きで、なんて考えていたのがやはり甘かったのだろう。これは覚悟を決めなければ・・。

--------------------------------------

さて、突然話は横にそれるが、就職してからめっきり聴く音楽が変わってしまったことを、ここで触れておきたい。ここで書かねば、永遠とそのタイミングを逃しそうなので・・。


就職したとたん、趣味が洋楽から邦楽に変わってしまったのはなぜなのだろうか。私の中の3大不思議のひとつである。

あれほど傾倒していた洋楽ロックは、ストーンズにて終りをつげ、就職と同時にがらっと音を立てて邦楽(やっぱりロックだが)へと移ったのである。

まずハマったのが「RCサクセション」。忌野清志郎の音楽に取りつかれた。初任の学校を異動するときは、全校児童の前で、清志郎風「上を向いて歩こう(ロックバージョン)」でさっそうと去っていったものである。子供たちは大喜び。先生達はあ然・・。

そして次になぜか「ユニコーン」。とうにブームは去っていたバンドなのだが、奥田民夫の音楽に傾倒。これもかなりハマった。ギターバリバリ弾きまくり・・。


邦楽ロックはその後、「イエローモンキー」「ウルフルズ゙」と変移し、いよいよ日本人学校の試験を受けるにあたる頃には、「エレファントカシマシ」で集大成を迎えるにあたる。もうその頃には毎日のように放課後エレカシを弾きまくり、先生たちの大ひんしゅくを買っていたものである。誰もいない教室で、大声出して歌うことほど楽しいことはない。今、それができないのが本当に残念である。

後から気が付いたのだが、ユニコーンの奥田、イエモンの吉井、ウルフルズ゙の松本、エレカシの宮本は、皆同じ昭和41年生まれの丙午男だったということだ。そしてこの自分も・・。

なんという偶然だろうか、いや、これは偶然ではない。この午年生まれの世代の作り出す音楽は、どこかで共通するものがあったのだ。必然的にこれらの音楽に惹かれたのだと分析しているのだが、実際こんな話は、みなさんにとってどうでもいいことで、ただ単に書き記しておきたかっただけである。ご容赦を。音楽ぬきでは語れない人生だったと思ってもらえればいいんデス。


--------------------------------------


さて、いよいよもって日本人学校挑戦も3度目の正直である。これがダメならあきらめようと背水の陣でのぞんだこの試験。県立図書館まで行って勉強したかいあってか、市・県・国までスイスイと進むことができた。

国の最終試験を終え、結果を待っていた2月のとある日。この日は朝からめずらしく大雪で、学校は休校で自宅待機状態だったところへ一本の電話が。「おめでとうございます。合格です。即グアムに派遣です。」目の前の大雪と、南国のイメージがうまくかみ合わず、しばらくはうまく事態を理解できなかったぐらいである。


ともかく合格!しかも一年の研修をすっとばした即派遣、行き先は「グアム」。皆さんは知っていただろうか。観光で有名なグアムに日本人学校があったことを。私も合格まで知らなかった・・。


それにしたっていきなりだ。2ヶ月後には南の小さな島で教べんをとっていることになる。身辺は激変した。急きょ筑波にて行われる2週間の缶詰研修に送りこまれることになる。


泊まりこみでぶっ続けて行われたこの研修。それはもう言葉につくせぬほど・・、楽しかったのである!これまでと違う環境で生活することが、ここまで自分の潜在意識を活性化させるとは。人間やはりマンネリはいけません。あなたも常に自分はどう変われるか考え、行きづまったらガラっと環境を変えてみよう。これまでに入らなかった深層部分のスイッチがONになることうけ合い!


研修中は個室を与えられ、洗濯などは各自で行う。基本的に施設外への外出は許されない。非常にきゅうつくな環境だ。(実は2度ほど脱走シマシタ‥。)しかし毎日学校と自宅の往復をくり返していた私には、とても刺激的な世界にうつった。家族とはなれてさみしいどころか、開放感で満たされていたぐらいである。学生時代の下宿生活を思い出す。オレは自由だ!(ばかデス‥)


ほど良い緊張感と久しぶりの独身気分を味わい、研修も無事?終了。当時、文科省次官だった森田健作が研修最終日に訪れ、なぜか「さらば涙と言おう」を熱唱したことだけを鮮明に覚えている。


--------------------------------------


緊張した面もちで空港を出ると全身を熱風が包みこむ。ここは常夏の国グアム。暑いをとびこえ「熱い!」。まさにしゃく熱地獄だ。この地において3年間教べんをとるわけだが、果たして無事任務をすい行できるのか。


まずは住まい探しから。日本を発つ前に、現地の担当に希望を伝えてあった郊外のアパートへ。通常日本人は、生活便利な観光ホテル街周辺に住むのだが、あえて郊外、まわりはうっそうとしたジャングルに囲まれるタウンハウスを選択したのだが、これは大正解。緑豊かな、ゆったりとした3年間をすごすことができた。やはり人と同じ選択はしては、貴重な体験を逃すものだ。リスクをとった分、見返りはあるものです。


しかし!トラブルは生活のあらゆる場面で訪れた。

まずは、車。公共の電車やバスが走らないグアムにおいて、車は必需品。日本では私の一馬力だったので、車も1台。しかしここではそうではいかない。子どもの送り迎えをするために、ペーパードライバーであった妻も、泣く泣く運転するはめに。日本のような車検制度がないので、車の故障は当たり前。仕方ないので、妻用に新車を買うはめに。


その妻がさっそくやってくれた大事件とは・・。


なんと子どもの登校日初日に、大型貨物トレーラーに突っ込むという大事故を起こしたのである!買った初めての新車は全損。たったの3日でパーである。

合衆国統治のグアムは、日本と違って右車線だったことが原因だったとはいえ、島の土を踏んで1週間後のトラブル!いきなり海外生活の洗礼を受けたわけだ。

実際現場にかけつけ、ぺしゃんこになった車を見たときは、最悪の事態を覚悟したくらいである。が、運良くエアバックがクッションになり、家族は軽傷ですんだ。不幸中の幸いとはまさにこのこと。

生活面のトラブルをあげたらきりがない。これで一冊の本が書けるくらいである。ポリスに銃を抜かれ、連行されそうになったり、ビーチで犯罪に巻き込まれ、現金を奪われたりなどなど、今となっては笑い話だが、よくもまあ乗り切ったものよ。


もちろんその分、リターンの恩恵にはあずかった。

まずは職場環境。小・中合同の学校で、全校児童生徒数は、80人余り。この人数は私が赴任中にへり続け、最後の年は50人台となった超小規模校だ。

私が3年目に教えた小学6年生は、クラス人数なんと4人。今、少人数の学習塾がはやりだが、まさにマンツーマンでの指導が可能な環境であった。先生と児童の関係を越え、人間同士としての信頼関係を築くことができ、まさに教師みょうりにつきる3年間だったといえよう。

そして南の島の自然美。高校・大学時代にいつか南の島に行ってみたいともらしていたものだが、このようなカタチで実現できるとは‥。願いは叶うものです。あなたも深く念じよう。

「念じれば花開き、行ずれば実は熟れる」


太陽・緑・海‥。人が自然体で暮らせるあの空間に、いつかまた戻ってみたいものだ。


そして、この海外生活最大のリターンとは・・、

(続きへ)